安藤 広近(あんどう ひろちか、天保6年7月16日〈1835年8月10日〉 - 没年不明)とは、江戸時代末期から明治時代にかけての浮世絵師、日本画家。
来歴
初代歌川広近の門人でその養子。姓は安藤、本名為吉。一親斎と号す。江戸の芝三田台裏町に住む。常陸国(現茨城県)笠間郡土浦城内役屋敷で笠間藩士の子として生まれ、弘化3年(1846年)5月、初代広近の養子となった。嘉永3年(1850年)の頃から十年ほど養父広近について絵を学び、万延元年(1860年)から明治にかけて横浜絵や肉筆浮世絵を描く。初代広近の没後に二代目広近を名乗り、万延元年に「二代目広近画」と落款して横浜絵「横浜岩亀楼全図」を版行した。しかし、明治初年には殖産興業の主要産業であった養蚕業が振興し、浮世絵が衰退したため、明治8年(1875年)12月以降は新宿養蚕所で3年あまり、養蚕の機器や人物の雛形などを描いて生活の糧としている。その後、明治12年(1879年)に海軍病院で療治雛形などを描く。
明治17年(1884年)5月、第二回内国絵画共進会に「安藤為吉」の名で絵を出品して褒状を受賞し、翌明治18年の第一回鑑画会には「安藤広近」として「秋景山水」と「伯夷叔斎」を出品する。以後フェノロサの求めに応じて住吉広賢や狩野友信とともに多くの古画の模写を制作し、またフェノロサや岡倉天心らの関西での古美術調査に同伴するようになった。
明治20年(1887年)5月開催の工芸品共進会で褒状を受け、明治22年(1889年)4月に東京美術学校雇となる。翌明治23年7月に第三回内国勧業博覧会に「美女秋国逍遥ノ図」を出品、三等妙技賞を受ける。その後明治24年(1891年)8月に東京美術学校の技手を任じられ、同年10月からは高等師範学校の技手となり、明治26年(1893年)9月の官制改正のときまで務めている。没年不明。
作品
- 錦絵
- 「横浜岩亀楼全図」 大判3枚続 万延元年
- 日本画
参考文献
- 井上和雄編 『浮世絵師伝』 渡辺版画店、1931年 ※近代デジタルライブラリーに本文あり。127コマ目。
- 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年
- 吉田漱 『浮世絵の基礎知識』 雄山閣、1987年
- 日本美術院百年史編集室編 『日本美術院百年史』(第一巻上 図版編) 日本美術院、1989年




